第8回研究集会報告

言語文化教育研究学会 第8回研究集会「わたしのコミュニティ わたしたちのコミュニティ」

第8回研究集会、終了いたしました。ご参加くださったみなさま、ありがとうございました。当日の様子は下記報告をお読みいただければ幸いです。


1 . 12年12日(土)「わたしのコミュニティ わたしたちのコミュニティ」論文・対話セッション報告

2 . 12月13日(日)9時15分から行われた発表対話セッションのご報告

3 . アンケート結果


1 . 12年12日(土)「わたしのコミュニティ わたしたちのコミュニティ」論文・対話セッション報告

藤川 純子(小学校教員)

「コミュニティ」とは何だろうか。「対話」とは…?「対話」の行き着く先には何があるのか?そして、この場は「ひらかれている」のか?…そんなことを考えながら参加していた。

発表内容について、自分のメモとスプレットシートを読み直しながらまとめてみた。

  •  地域ぐるみの新しい「共育モデル」を体現するような「学び舎づくり」への挑戦/ 宇佐川拓郎(小鹿野町地域おこし協力隊)

ローカルとグローバルの捉え方の葛藤

まず宇佐川さんからは、「ローカルとグローバルの捉え方の葛藤」についての問いが出た。関係軸を外へと拓いていき多様性を作っていきたいのにそうはいかない現実。「地域=コミュニティ」という昔の捉え方ではないはず。自分でもよくわからなくなってきている、とのこと。

「コミュニティとグループってどう違う?」…ただ単に集まるだけとは違う?地域に紐づいているのがコミュニティ?→宇佐川さんがつくろうとしているのはコミュニティ。

宇佐川さんは「小鹿野町に特別な思い入れがあるわけではない」と言う。摩擦や葛藤を経ることで、新しいコミュニティ創造のためのヒントが生まれる?でも自分の理念をあまり表現していない(摩擦を回避している)自分がいる。もっと打ち出すのが大事?→ストラテジー大事。裏表を使い分ける。誰かがその視点を与えていく。「誰か」って?

私は“the first penguin”のことをちょっと連想した。“the first penguinとは、群れで行動するペンギンのうち、魚を捕るために番最初に海に飛び込む勇気あるペンギンのこと。ただ地域で多様な視点を与えていくような存在って率先して自らが飛び込んでいくタイプの「リーダー」とは違うみたい。だけど視点を示すだけで自分は何もしないの?それは違うような。

「学校という空間」にとらわれないという意識

事前に質問を書くためにネット上に用意されたスプレットシートには、「(どちらかというと閉じた空間にいがちな)学校教員には,どのような力や考え方が求められるか」という問いがあった。それに対して宇佐川さんは、土日にカフェを開催した高校生の例を挙げ、「学校という空間」にとらわれないという意識、と答えていた。

それは、空間だけでなく、「従来の学校」の固定観念に縛られない視点や発想を持ちつつ、目の前の子どもたちや地域に応じて必要なそして可能な教育を柔軟に変えていける力、なのかもしれない。それって学校教員だけに求められるわけでもなさそう。「協働」のためのヒントは、ここにあるような気がしてきた。

  • 公立高校と地域の関係性/ 片山恵(北海道斜里高等学校)

生徒が主体的に取り組める総合的な探究の時間とは?

片山さんより「学び手が学校という枠を飛び越えて地域へ入っていくことで、学びの基盤を作っていけるような可能性を感じている」というコメントがあった。ただ日本と世界の差より、都会と地方の差のほうが大きい、何がグローバルかわからない、と。「総合的な探究の時間」もやらされている感がある。学びにつなげていくのは難しい。生徒が自分の意見を述べる参加の場はあるが、それもやらされている感がある…。ただこのコーディネーターの仕事は、待遇の問題もありご本人は今年度末までらしい。

内側からの変化と外側からの変化

小グループに分かれるブレイクアウトセッションでは、かなり多方面からの意見が出た。これまで高校での留学から多様性が語られてきたが、国内のマイノリティや多様性などに目を向ける必要がある。高校生が斜里町に行こう!と思う決め手になるような、分かりやすい魅力を発信していく必要があるのでは?内側からの変化と外側からの変化…どちらが大事ということではなく両方大事。

日本は内側から変わりにくく外からの力に頼りがちだが、本当は内側から変化しようとしないと継続しない。高校生自らの動き…コミュニティへの参画、主権者教育のようなものに期待したいが、そもそも教員が変わらなきゃダメなんじゃないか。でも学校教育への期待、だけで議論が終了してしまうのでは、残念すぎる。

全体的に論点がバラけてしまった感はあったが、「コーディネーター」という新しい職種で学校現場や地域に入っていくことについて成果や課題をもっときちんと整理していけば、何か見出せそうだと感じた。

  •  対話する場としての「ひるまち にほんご」/ 山内美穂(長崎国際大学)板橋民子 廣津公子(立命館アジア太平洋大学)

自らが変わっていく「ひるまち」

大分県別府市。2016年からやさしい日本語で交流する場。毎月1回週末の午後。気楽さや楽しみを生むための仕掛け。「ひるまち」の中に閉じてしまうようなことはないか?―ゆるやかに出入りすることができるので閉じるというイメージはない。「俳句でハイク」のようなイベントが楽しかった。[U2] 「ひるまち」を経験したベトナム出身の卒業生が由布院でも「ひるまち」に似たイベントを開催したとのこと。ひろがりが感じられる。

午前中の話が外部からの刺激でコミュニティが変わっていくというような話だったのに対し、「ひるまち」は自ら変わっていくという話だった。でもそのためのリソースはやはり「多様性」みたいだ。

「コミュニティのようなもの」ができていく過程

「継続する中で、コミュニティと言えるようなものができてきた様子…そのコミュニティは最初にイメージしていたものと同じだったか、もしくは違ったか」という問いに対して、発表者は、「最初は『コミュニティ』の意識は全くなく始めた」と答えている。3年以上続けて「コミュニティのようなもの」ができてきた、と。

ブレイクアウトセッションでは、取組が長続きする秘訣について、「楽しむ」ことが強調されていた。また。個人の力だけではなく仕組みや得意な分野を分担すること。似たような人同士で集まりがちなので「無理やりグループワーク」を取り入れているという例も紹介された。ただのディスカッションでなく何かを協働しなくちゃならないという状況を生み出すことで、新しい何かが生まれる。それは「コミュニティのようなもの」の萌芽なのかもそれない。

  •  対話を重ねる:ソーシャリー・エンゲイジド・アートの事例とともに/ 倉沢郁子(関西外国語大学)

キーワードは対話

Social Engaged Art の事例を考える。倉沢さんには、具体的なコミュニティのイメージはなく、書きながら「対話が大事」だと考えていた、とのこと。そのコミュニティに対して自分らしくありたい。きちんと自分のことを述べられるコミュニティでありたい。アートはひらかれている。一方、教室には評価がある。ただ参加者という視点で考えた時、将来どのように社会に参画していきたいかということを考え、権力はありつつ平等な場で同じ学びという空間を共有する。そこも対話がキーワードになる。

倉沢さんは、20年間カナダなど北米に滞在した。そこで関わったプログラムは自分がいなくなったあとも存続するかを考えなければならなかったという経験がある。

「正解」ではなく、みんなでつくりあげる

「難しかった」と言っている人が何人かいた。私にとっても正直、難しかった。コメント欄の多くは質問になっていた。

「正解」を求める教育を受けてきたのでつい「正解」を求めてしまいがちだけど、本当は答えなんて定まったものではなくてみんなが作り上げていくものなのかもしれない。そういう教育がこれから必要なのは確か。「論文」というよりは、ドラマとか演劇のようにみんなで作り上げていく人たちの作り方、という感想があった。だとしたら、この発表とこの対話のあと、倉沢さんがどうしていくかは気になる。

  •  わたしの体験からわたしたちの問題へ~「体験の言語化」を通じての試み~/ 兵藤智佳(早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター) 佐野香織(長崎国際大学)

個人の学びをどう文字にし、社会へつなぐのか

国内外のフィールドへ学生たちを送り込み、学びへ。その体験の言語化という手法。感性はあるが体験を言葉にしたり自分ごととして捉えたりすることができない学生。5人の教員で25人を受け持っている。

語ることによって、自分の体験が自分だけの体験じゃなかったというつながりを生み出せる。その結果として楽になることはあるが、それが狙いではない。

個人に閉じていないということ=対話的。自己エスノグラフィーという研究法の一つ。プロダクトとしては個人の体験の言語化なのかもしれないが、そのものが協働するプロセスになっている。

「主体的対話的で深い学び」が狙うこととは?

体験の言語化って?問いに答えるプロセスの中で、言葉になっていないものが外に出てきて客観視して新たな気づきが生まれるということかもしれない。言葉が外に出て、それが客観視されていく…そうすることで社会とのつながりを生む。なぜ?ということを繰り返していくことによって自分の価値観や信念が浮かび上がる。

小学生が学習感想に「楽しかった」しか書けない。大学生にもそういう子がいる。「やらされてる感」「教師の期待する答えを書く」パターンも多い。本当は自己開示するための場についても、大学生になってくるとその場をつくっているのが自分自身でもあるのに。高校まで教師主導の教育を受けてきた弊害か?小〜高校で授業に主体的に参加させてこなかった。

いま、新学習指導要領は「主体的対話的で深い学び」を求める。しかし現場レベルでそれが意味するところがわかっていない。何から始めればよいのか。大学教育だけの問題ではないと思った。

感想

念入りに時間をかけて準備されたこのセッションの場は、自分にとって、参加者にとってどんな意味があるのだろうか。対話を深める目的は?またこの「場」はひらかれているのだろうか。

対話自体は楽しいし、新しい知識や発想を得ることが有益であることに間違いはない。しかし「この場を楽しもうよ」「新しい視点を持とうよ」という提案は、いったい誰に向かって投げかけられているのだろうか。

教育の現場に関わる人間は、様々な方面から多くのことを期待される。そして期待される事柄は、日増しに多くなっている。その中で、「対話の場」は、優先順位の高いものなのだろうか。

教育現場にも市場原理は入り込み、即時に成果を出すことを求められる今、私は板挟みの状態にある。

明日の授業を子どもたちにとって実り多いものにするためにアイデアを練り準備する時間、自らの視野を広め、学びを深める対話・研究・研修の時間、自身や家族の健康を維持するための睡眠や休息の時間。

「それでも対話は有益」だと論じることは可能だが、実際、そのための時間を生み出すために、かなり色々なものを犠牲にしているという矛盾が存在する。過酷な学校現場で日々の対応に追われることは、本当に最優先なのか。見直す必要はあるのは確かだが、もう見直すという発想自体が生まれてこない。

今はまだ、早朝から深夜まで働く仲間に「対話の場」への参加を求めることはできない。

しかし「対話は有益だと論じる」ことは、可能なのである。

いったい何から始めればいいのだろうか。



2 . 12月13日(日)9時15分から行われた発表対話セッションのご報告
 発表対話セッションを見ながら、2人の実行委員ファビとハァビが対話です。


地域ぐるみの新しい「共育モデル」を体現するような「学び舎づくり」への挑戦

宇佐川拓郎 × 山崎亮


ハァビ:コレ、8月29日にやったプレ企画からずっと続いてるやつ。今日が集大成やで。ファビ。

ファビ:にゃお~。

ハァビ:宇佐川さんは、小鹿野町地域おこし協力隊の人で「大人のための学校」を立ち上げたらしいで。

ファビ:すごいな~。

ハァビ:山崎亮さん、出てきたで~。かっこええな~。

ファビ:声もええなあ。

ハァビ:宇佐川さんの背景の写真、ええな。

ファビ:牛がおるのが牧歌的でよひ。

ハァビ:地域に定住しなくてもコミュニティに関われるかって話なん?

ファビ:山崎さんも定住なしで地域支援してるって。定住って地域と結婚みたいなもん?

ハァビ:定住=愛?ホンマか?

ファビ:惚れ合ってスタートして結婚もあるけど、結婚ありきで恋愛するわけじゃないしな。

ハァビ:せやな。ファビの恋愛話も聞きたいで~。

ファビ:人と地域との関わりに愛が要るっていうのはちょっと古い硬い考えなんかな。

ハァビ:「時間をどうデザインするかがあまりになさすぎる」って山崎さん言うてるで。小学校は6年間って誰が決めたんねん、みたいな。

ファビ: 限られた時間(=人生)をデザインってすごくええアイデア!

ハァビ:地域おこし協力隊って、いいネーミングらしいで。この「協力」っていうのがミソやな。「実行」じゃなく「協力」なんやて。

ファビ:要はサポートなんやなと思うと、教育と似てる。

ハァビ:よう似とるな。

ファビ:じゃ、こういうコミュニティに現れない人とどう関わっていく?

ハァビ:どうするべ。質問も出とったな。

ファビ:せやからアウトリーチせなかんのちゃう?

ハァビ:アウトリーチってなんやねん。

ファビ:当事者のところに降りていく的な。

ハァビ:山崎さん言うには「100人で町の総合計画を作りあげる。それが果たして町の2万人にとって有効的なのか?でも100人で話し合った内容から広がりや動きがある」らしいで。

ファビ:学校でおもしろい授業をやって見せるのと一緒かも。

ハァビ:似とるな。宇佐川さんの話も山崎さんの話もなんか、うちらの仕事とよう似とるとこあるで。


対話を重ねる:ソーシャリー・エンゲイジド・アートの事例とともに

倉沢郁子 × 山崎亮


ファビ:次は、倉沢さん、カナダで日本語教育のプログラムに関わった継続性について考えた人や。ジョン・ラスキンのシンポジウムで山崎さんと出会ったらしいで。

ハァビ:ダスキン?そろそろ大掃除せなあかんな。

ファビ:・・・

ハァビ:倉沢さん、人生をくつがえされることに出会ったらしいで。ファビ、人生くつがえされたことあるん?

ファビ:くつがえさせられっぱなしの人生。

ハァビ:・・・

ファビ:対話の中でどんなことを大事にしてコミュニティ作りに関わっているか。倉沢さんから山崎さんへ問いかけやで。

ハァビ:山崎さんて「アイディア300を考えておくけど、それはリトマス試験紙」みたいなんやって。地域から出たアイディアを判定するんやな。いいとか悪いとかじゃなくて、300のどれに近いのか。

ファビ:答えを出すのではなく相手の主体性を引き出す。そのための300や~!

ハァビ:山崎さん地域で「あえて敵になる」んやて。勇気要るな。

ファビ:さすが、山崎さん!みたいなことになったら失敗らしいな。

ハァビ:立ち位置、めっちゃ大切なんやな。

ファビ:「対話するとき自分さえ押さえ込めばいいって思う時ある」って倉沢さん言うとるで。

ハァビ:どんな意味なんやろ。ファビどう思う?

ファビ:私は自分を出しても受け入れられること。それはつまり相手も受け入れていることでもあるって思う、それが居心地の良さかな。

ハァビ:いいこと言うやん、ファビ。また惚れ直したで。


総合セッション

山崎亮×倉沢郁子×宇佐川拓郎


ファビ:ここから、3人のセッションなんやて。この3人なに話すんやろな。

ハァビ:地域で話し合って「学校」創るって話らしいで。

ファビ:「学校」って言葉がイマイチらしい。ネーミングは地域の人に決めてもらうのがいいって。

ハァビ:学校じゃなくて「ひろば」はどうか?って誰か言うとるで。機能を限定すると危険なんや。

ファビ:無駄の必要性ってことか。

ハァビ:ウサギのかぶりもの着た職員が、おばあちゃんと縁側で話す話、おもろいな。

ファビ:「ウサヒ1」って山形県の地域おこし協力隊の話なんやて。

ハァビ:このウサギ、いやウサヒ、見るからに役に立たんやろ。そりゃ住民も怒るで。でも、かわええな。

ファビ:なにも期待されない演出なんや。

ハァビ:お~2代目まであるらしいで、恐るべしウサヒ。

ファビ:フォームは継承できるんや。

ハァビ:宇佐川さんも、被り物経験済みだったん。さすがやね。

ファビ:うち、猫のかぶりものしたで。

ハァビ:コミュニティで、敵になったり、うさぎになったり、みんないろいろやな…。いろいろやけど、おもろいな。


山崎さんは、ご著書で「コミュニティに関わることで得られる果実は、関わった人それぞれにとって違うものだろう。自分に必要な果実を組み合わせて手に入れることで、その人の人生がより豊かなものになるとすれば、コミュニティデザインに携わる者としてこれほど嬉しいことはない」と書かれている。今日のオンライン集会で自分の果実を手に入れ、参加した人、一人一人が豊かな時間を過ごしてもらえたなら、集会実行委員としてこれほど嬉しいことはない。またファビとハァビの対話が全く分からず、モヤモヤされた方がいらしたら、次はぜひ集会でお会いできたらと思う。

注1:山形県朝日町「桃色ウサヒとは?」https://www.town.asahi.yamagata.jp/usahi/usahikankei/6054.html

注2:山崎 亮,『コミュニティデザインの時代-自分たちで「まち」をつくる』, 2012,中公新書,146頁


3. アンケート結果